[前編]


【一】


三ヶ月前。


「さあみんな、黒板を見て。」

昼下がり。昼休みの熱気も冷めやまぬ教室で、俺は話し始めた。

「いま俺たちが住んでる舞山市あたりは昔、交通の要衝として栄えてたんだな。
 山々に三方を囲まれた平野部で、南東へ行くと海に出る。江戸時代初期まで栄えた港が…ここ。
 今、新しいコンビナートのできている港からは少し離れている」

35名の子供たちの前で行う、地域学習の授業。
黒板に掛けた大きな地図を指示棒で押さえながら説明していくが…

はぁ〜っ、みんな眠そうな顔してやがんな。
実は過去数年で市内臨海部に工業団地ができて、いま教室にいる児童の半分強は従業員の家族なのだ。
つまり他所から移り住んできた『外国人』であって、地元に対する愛着はない。
似たような生徒構成のクラスがあと、一学年につき3〜4クラスほどある。
低学年は教室の数が足りず、仮設校舎で凌いでいるのが現状だ。

「大柄山の東、ちょうど陸と海の道の交わる西部の丘。
 いまはダム湖のちょうど上に位置する丘には、室町の頃に治めていた大名・佐山氏が城を築いていた。
 当時は城といえば山城が多く、立派な石垣や天守閣を擁する豪華なイメージからは遠いものだったが…」

別棟の音楽室からだろう、心地良い交響曲が流れ聞こえていた。
それがマーラーの交響曲第一番であることは、後になって知った。
あくびしてる子がいる。「最上級学年なんだからもっと集中しろ」と叫びたい衝動に駆られる。
この教室には『本物の』外国人も1割いる。主にペルーやブラジルなど南米系だ。
外国人労働者の子供たち。国際化の時代というか、日本人労働者切捨ての時代というか…。

「公園広場に石垣が残っているのは、江戸時代の藩主が大改修を行った名残というわけだ」

濃い褐色の子供たちはきょとんとした顔で授業を聞いていた。
主にスペイン・ポルトガル語を母国語とし、日本語すらままならない彼らだが、
三層六階の天守閣の写真パネルを出すと、興味深げに見つめた。
ちなみにこの城は25年前、大柄山の火山活動に伴う大災害で焼失・倒壊し、以後も再建されなかったため、
現在は石垣の一部しか残っておらず、公園になっている。

「じゃあここまでの部分、板書をノートに写すんだ」

俺は海の見える窓に背をもたれかけ、一息ついた。
交響曲に混じって隣の教室から、理科の授業が漏れてくる。

『わたしたちの身体は約6兆個の細胞によって成り立っているの。細胞は絶えず新しい物が作られ…数年かけて、
 体中全部の細胞が入れ替わると言われてるわ』

涼しい風がシャツの中を吹き抜ける。
大抵、学校という建物は風通し良くできているが、丘の上に立つこの小学校は風通しがあまりに良く、冬場はかなり寒いが夏は有難い。


鳴き始めた蝉の声に耳を傾けていると、色の違う肌が混在する教室の中、廊下側の一番後ろに座る男子が、
二つ斜め前の男子に向かって何か白い物を投げているのを見つけた。

「こら、森下!いま何投げた」

一番後ろに座る男の子へと近寄っていく。
森下諒貴(もりした りょうき)。この教室では数少ない『地元民』だ。
やや茶色っぽい長くストレートな髪。スタイル良い身体を一層引き立てる、洗練されたファッションセンス。
幼いながらも鼻筋の通った、ほっそりした面持ちのハンサムボーイ。
ケンカが強くて歌が上手く、女子の人気は高いがイタズラ好き。

「ふふっ、何もやってないですよ」

諒貴はまだ声変わりを迎えない、ハスキーがかった声で答えた。
本人は意識していないのかも知れないが、大人を舐めたような響きの口ぶりが損をしていると思う。
一方、二つ斜め前に座るのは鍋島 樹(なべしま いつき)である。
黒縁の四角い眼鏡は、あどけなさの残る柔らかな顔立ちからは不釣合いにも見える。

「イツキ、大丈夫か」

綺麗な黒髪に絡まった消しゴムの屑を払ってやりながら声をかけた。

「平気です。昔から慣れてますから」

返事は諒貴よりややトーンが高くて、澄んでいる。
俺の顔を見ずに、ノートを写す筆を止めないイツキの細い手首。

「あーあー、何もやってないって言ってるでしょ先生ー」

諒貴は顔に「何かをやらかしました」とマジックでしっかり書いてあるかのような、いたずらっぽい目をそらした。
指は窓から流れ続けている旋律に合わせ、机の上を両手の指でトントンと器用になぞっている。
あたかも目の前に「ばかには見えない」魔法の鍵盤があると言わんばかりに。

クラスがみるみるざわついてくる。
全国から、いや全世界から子供たちの集まったこの教室も、新学期から三ヶ月ほど経過したが、
お互い知らない者同士の割合が高いということもありストレスは多くなる。
一人一人を見ていけば比較的大人しい真面目な子たちがほとんどだが、クラスの一体感は薄い。
そんな中でも、「地元民」の二人には、もう少し仲良くやって欲しいものなのだが…いわば不協和音。

「ふたりはあとで職員室へ来るように。…はいはーい、みんな静かにして!」

叫んでみるが子供たちはますます賑やかになる。
「副担任」という肩書きはつけられているが名ばかりで、実質、新米の俺。我ながら指導力のなさを痛感する。
少子化で先生あまりのご時勢、教員免許を取得しても先生になれない人は少なくない。
高倍率の中、唯一児童数の増えていたこの美森小学校へ臨時講師として滑り込むことができたのは幸運だったが。
もう一度、今度はちょっと声を張り上げようと、がんばって息を吸い込んだ時−。


「うるさいぞ!!」


バシン!と扉が開き、俺より先に女の声が響く。
同時に教室が凍りついた。

「あ…早川先生」

厚化粧の女が鬼の形相で立っていた。
早川栞先生。教務主任でこのクラスの本当の担任。

「森下!また何かやらかしたのかぁっ!?」

50近いはずなのに、肌の艶は30代後半といったところ。もともとの造詣はなかなかの美人である。
カツカツと履物のかかとを鳴らしながら入ってきた早川先生は茶髪の前で止まると、マニキュアの指を差した。

「何ですか、この髪は」
「これは地毛ですって…」

諒貴の髪が、生まれつき色が薄いのは本当だ。

「そうだったかしらね」

白々しく言い放ち、早川先生はくるっと俺のほうを向いた。

「堤(つつみ)くん。生徒指導の何たるかについて、次の初任研でもう一度叩き込んでやる」

俺をきっ、と睨みつけたあと、鍋島のほうへ歩いてく。
少年の綺麗な髪に顔を近づけ華奢な肩を抱くと、その香りを愉しむ乙女のように猫なで声で言った。

「イ・ツ・キ・きゅぅ〜ん??困ったことがあったら何でも先生に言うのよ〜〜?」

左手でイツキの手のひらを揉むように指をいじりながら、右手で黒髪を撫で撫でした。このあたりだけは妙にオバサンだ。
あからさまな贔屓の現場に、俺は呆然と立ち尽くしていた。

「なんだ皆、先生が何か間違ったことでも言ってるか!?」

視線を落とした児童たちを尻目に、早川先生は「授業を続けて」と言い残して出て行った。

ひょっとしてクラスがまとまらないのは…いや、やめておこう。
教師の世界は閉鎖社会だ。職員室でお局の早川先生に嫌われたら、面倒なことになる。
俺は、暑いのに空気は冷え切った教室で授業を再開した。

やがて舞山市全域を巻き込むことになる最初の『事件』が起こったのは数日後だった。




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