【二】


『イカのお化けが海中から姿を現した』

信じられないニュースを目にしたのは、夕方の下校途中だった。
丁度期末テスト前で部活がなく、弟の樹(イツキ)と一緒に買い物してから家(うち)まで帰ろうと思って。
美森小と、あたしの舞山東中学は300メートルほど離れていたが、中間点にある花屋さんの前で待ち合わせていたのだ。

人口10数万の舞山市は近頃、海のほうに工業団地ができて人口は増加傾向にあったけど、外国人労働者も多い。
以前はサラ金の看板の他は、空き店舗のシャッターと駐車場ばかりが目だった歯抜けの中心市街地にも、
南米系の食材店や飲食店が何軒かオープンしていた。
昔よくお父さんとイツキと三人、並んで歩いた頃からは様変わりした、異国情緒ある町並み。
新鮮さとどこか寂しさの入り混じった、不思議な懐かしさを愉しんでいたときだった。

花屋の向かいのビルの壁面に設置された大画面テレビに、体長100数十メートルはあろうかというイカが、
港湾に停泊していた貨物船を足で掴んで空中に持ち上げている映像が映るのを見た。

たちまち街はパニックになって。
パトカーや消防車がすごいスピードで走る横の歩道を、おおぜいの人たちがばらばらの方向へ逃げて走る。
あちこち狭いところで人ごみがお団子になってるというか…お風呂の栓みたいに道を塞いでもみくちゃだ。

いま、午後3時20分。 待ち合わせの時間は午後3時。
20分の遅刻。…ったくもうっ、イツキってば何処で何道草食ってんのよ!?
時間にルーズなこと、言い訳する口ぶり、お茶碗を置くときのガチャンと投げるような癖。
近頃、刑事のくせに家では大雑把なお父さんに、性格がそっくりになってきたのが気になって仕方ない。
そんなにお父さんに似たけりゃ、近い将来ハゲちゃえばいいんだわ!

…あ…だとひょっとして、あたしのおでこもやばいのかな?
やだっ、どうしよぅ!?

「由美ちゃん!」

前髪を片手で触ってたところへ、背後からあたしを呼び止める声。
振り向くと、私たちの住むマンションで同じ階に住むおばちゃんが立っていた。

「ここは危ないよ?避難所に指定されている小学校へ、一緒に逃げよう」

お母さんがあたしの小さい頃に亡くなり、長くお父さんと弟の三人暮らしだったうちにとって、
おばちゃんはお父さんが留守のとき、姉弟を気遣ってくれたり、ご飯を食べさせたりしてくれた特別な人だ。

「でも弟がまだなんです!あの子、あたしがいないと」

初老の婦人は少し考える仕草をしてから、優しく微笑んだ。

「イツキくんは十分大きくなったさ。大丈夫、先に避難してるって」
「おばさん…」

沈黙を耳をつんざく轟音がかき消した。
見上げた空を、何機か戦闘機が横切るのが見えた。きっと、隣県の基地から発進したんだ…。

「さあ、早く!」

おばちゃんはあたしの手首を掴むと、走った。あたしも引きずられるように後を追った。
ただ、はぐれないようにあたしの手首をしっかり握ってくれているおばちゃんの手だけが命綱だった。
海のほうから銃撃音、花火みたいな爆発音が聞こえた。
怖い、と感じる余裕さえなく、ただ無我夢中だった。

ふとゴオオオッという風を切る音がして、まわりが暗くなったことに気付く。
立ち止まった。びしゃびしゃと頭に当たる飛沫。雨? いや、しょっぱい? 

「ひいいいいいいっ!」


おばさんの悲鳴に振り返った空から、巨大なプロペラの回転する赤い鉄の塊が降ってきていた。
飛行機?
いや違う!大きな船底だ!
こっちへ向かってくるの。地面に衝突まであと、0コンマ何秒…??
どっちへ避ければいいの?…だめだっ、間に合わない!

何を思ったか、いつの間にか身体が勝手に、背負っていたテニスラケットを手に握っていた。
人間、頭の中がまっしろになると何をしでかすか分からないものらしい。

「無茶よぉぉ〜〜〜〜〜〜〜〜!」

おばさんの裏返った声が響いた。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

きっとそのままアレに押し潰されていたら、自分が死んだことさえ認識できずにぺしゃんこになってたに違いなかった。

ところが、奇跡は起こった。

寸前のところで、飛んできた船尾を巨大な手がぬっと遮り、受け止めたのだ。
何メートルあるのだろうか?? 誰の手? 敵? 味方?

「由美ちゃん!由美ちゃん!」

気がつくと、腰を抜かしたおばちゃんと地べたにへたり込んで抱き合ってた。
大きな手はグーを作って船尾の一部をバリバリと握りつぶすと、残骸を、紙くずを捨てるみたいに道路へ落とし、
ビル工事のクレーンみたいに上へ上がっていった。
次に目の前に現れた巨大な靴が、直下地震みたいな地響きとともに残骸を踏み潰した。

あたしの目が足を上へ辿っていく。人間…?
靴はブーツ状で脛当てと一体化していた。膝、フトモモの素肌は無駄毛がなくすべすべ。
胴は黒い女の子の水着みたいな生地に覆われているようで、この身体とさっきの手は腕で繋がっているみたいだった。
とはいえほぼ真下で、首が痛くなるほど見上げても、おしりと股間ぐらいまでしか見えなかった。
でも、その股には控えめながら生地に膨らみがあり、きっと男の子なのだと思った。
ちょうどあたしと同い年前後か、やや年下ぐらいの。

なんでこんなに大きいのよ!?
ロボット? 秘密兵器? それとも宇宙人?

靴が少し動いた。
やだ、どっちへ動くの? あたしたちを踏み潰さないでよ!?
一瞬恐竜に睨まれたみたいに怖かったけど、足はあたしたちとは反対の、海の方向へ駆け始めた。
ゼリーのように大地を揺るがし、蹴るアスファルトを陥没させながら。
もうっ、石が跳ねて痛いじゃないのっ!

少年らしい肩幅の背中しか見えなくて、ビルの陰になっててあまりよくは分からなかったが、
太陽に照らし出された顔がちらっと見えた。なかなか可愛い子だったみたい。
もっと見たかったのに、ビル壁の大画面テレビが停電で映らないのが何とも悔しい。
なんとなく、はじめて見た気がしない顔。何なの、この懐かしい感じ…ああ思い出せないっ!

「おばちゃん、大丈夫?」
「ああーびっくりしたぁーっ…寿命が縮まっちゃったねぇ…」

地面にへたり込んだおばちゃん。どうやら腰を痛めてしまったようだ。

「しっかり!…ちょっと、これ持っててくれる?」

あたしはラケットケースを持ってもらったおばちゃんを背負った。
さあ今のうちに学校へ向かおう。一刻も早く。アレが戻ってこないうちに。

「おや…由美ちゃんも大きくなって、力持ちになったもんだね。
 昔、小さかった時はね、おばちゃんがよく負ぶってあげたものだが。そうそう、あの頃はね、…」

揺れる背中で、おばちゃんの長ーい昔話が始まった。
エンドレステープのように同じ内容がループして、もう聞き飽きた昔話。
おまけに生じっかあたしの過去を知っているから余計、いやらしい。

あーあ。イツキはもう、学校に着いてるかしら?





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